鯉になった神様

以下は重原村(現在の知立市上重原町)に伝えられている口碑(言い伝え)です。

 

戦国時代、駿河の今川義元の軍勢がこの地に攻め寄せ、今川方の武将戸田弾正の手勢によって知立神社は放火され、殆どの社殿建造物は焼け落ちてしまいました。

神社のご神体はかろうじて運び出され、重原村に当時の神主によって奉遷されましたが、今川方の追手は重原の地までやってきました。

ご神体は重原村のとある農家に隠されましたが、今川の兵は家々をしらみつぶしに探し始めました。ご神体は恐れ多くも農家の使う桶に隠され、その上にムシロをかけて見つからない様にしました。それでもその家に押し入った今川の兵は、その桶を不審に思い、ムシロを取り除けてしまいました。

するとどうでしょう、桶の中には一匹の生きたコイがいるだけでした。やがて今川の兵はあきらめて立ち去りました。

不思議なことに、知立神社の神様は鯉に化けて、難を逃れたのでした。その後、しばらく重原村に仮社殿に鎮まられ、時代が落ち着いてから今の社地にお帰りになられたのでした。


黄金の釜

昔、ある所に、良いお爺さんと悪いお婆さんがいました。ある日、地面が地震のように揺れ、地の底からうなり声が聞こえてきました。それが何日も何日も続いたのです。

お爺さんは見に行くと、地中から黄金の釜が姿を現し噴き出してくるところでした。驚いたお爺さんはお婆さんに伝えて、お婆さんが見に行くと釜は引っ込んでしまいました。その後も、お爺さんが見に行くと釜が噴き出し、お婆さんが見に行くと引っ込んでしまいます。

お爺さんが釜を拾い上げて家に持ち帰ると、お婆さんが怒って釜を殴りつけました。すると釜が「痛い、痛い。こんなことなら、知立明神へ行きたい」と泣き出しました。お爺さんはそれを聞き驚いて村人と相談し、釜を知立明神に奉納したということです。

一説には、釜にはもともと「知立明神」の銘があったともいわれています。この時から、釜がでた所を「釜ケ淵」、その村を「福釜」(ふかま)と呼ぶようになったとのことです。

 

福釜は現在の安城市福釜町。知立神社から真南に2里(8キロ)離れた所にあります。この話は知立神社が関わる地名起源譚です。奉納されたという釜は今はどうなったのか、それは謎です。 

出展 『新編 愛知県伝説集』福田幸男著 昭和36年


水野氏と池鯉鮒大明神

戦国時代、刈谷の城主だった水野氏は織田家・徳川家とも関係が深く、徳川家康公の母お大の方は水野忠重公の姉にあたります。水野氏は元々知多半島の出身で、父祖の貞守の代には、刈谷から衣浦湾をはさんだ対岸の小河(現東浦町緒川)に城を設けて、根拠としておりました。代々の家紋は菊水に一文字を使っておられたが、貞守ある戦の折に、早朝池鯉鮒大明神の霊夢を見て、お告げの通りに沢瀉(おもだか)の花を取って、味方の兜・鎧の袖の目印にしたところ、戦に大勝したとのことです。これを機に、家紋を池鯉鮒大明神の神縁深い沢瀉にあらためられ、その後戦国の世で出世をして、勝成公の時代には備後福山で10万石の大名となりました。
(『寛政重修諸家譜』より)


昔話「片目の鯉」

当社に関する昔話や伝説を紹介していきます。まずはいちばん有名な「片目の鯉」のお話です。

 

昔むかしの話。池鯉鮒宿のとある長者の家には代々目をわずらう者が多かったとのこと。その家に信心深く気立ての優しい娘がおりましたが、或る時から目を患い、病篤くあわや失明という容態になってしまいました。両親は深く心配し、娘の目が良くなるようにと、くる日もくる日も池鯉鮒大明神のご神前に通い、「大明神さま、どうか娘の目の病いを治して下さい。以前のような明るさを取り戻して下さい」と、ただひたすらにお祈りをいたしました。

二十一日目の満願の日、突如娘の目がはっきり見えるようになりました。驚き喜んだ娘は父母とともに、お礼参りに神社を訪れました。境内にある御手洗池(みたらしいけ)をのぞき込んだ娘は驚きました。「お父さま、見て下さい。池の鯉がみんな片目になっている」。父母が池を見ると確かに、どの鯉もどの鯉も片目になっていたのでありました。

これは神様のお使いの鯉が信心深い娘に片目を与えたのだろうということで、以来御手洗池で目を洗うと眼病が治ると信じられるようになりました。大正の頃までは、実際に池で目を洗う人が見られたそうです。
(参考:『知立市史』下巻、加藤則幸著『昔話 天狗火』)


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